さいたま市の美術家をつなげる会

どこかでお会いしましたね2013

- 世代と流派を超えた26人の美術家たち -

友だちの友だちが友だちになった-「どこかでお会いしましたね」事後録

松永 康

 事の始め

 筆者はさいたま市西区に拠点を置くNPO法人コンテンポラリーアートジャパンに所属している。この法人が中心となり、2008年から「さいたま美術展<創発>プロジェクト」というのを実施している。このプロジェクトは、埼玉県内に在住する美術家に対して時期を合わせて地元で展覧会を行うよう働きかけ、それらを広く紹介していくというものである。ここで声をかけたのは、都内の画廊等で作品を見ながら友好関係を築いてきた美術家たちであった。
 筆者がこれまで見てきたのは、いわゆる「個展系」の美術家の作品が中心だった。個展系とは、貸画廊等での個展を中心に発表してきた美術家のことを指す造語だ。それに対して、美術家団体を基盤に発表を行ってきた人たちのことを「団体系」と呼んでいる。そのため筆者の携わる展覧会もまた必然的に個展系が中心となった。都内で活動を行っている分にはまったく気にしなかったのだが、県内でプロジェクトを始めるようになったとたん、同じ地域の中で活動を行う団体系の存在を無視できなくなってきた。
 戦後、地域に美術を浸透させてきたのは、他ならぬこの団体系の美術家たちであった。彼らは中学高校の美術教師として生徒・学生の指導に当たり、また地域の教育委員会が主導する市展や県展の運営を行ってきた。そしてその中から美術大学に進む者が現れ、さらに中央の美術家団体展に出品するというように、美術家になるための第一のステップを構築してきたのだ。それならばあえて団体系を区別するのではなく、いっそのこと彼らもこのプロジェクトに巻き込んでしまったらどうか。そのことで、まったく新しい展開が期待できるのではないかと考えるようになっていた。
 一方で筆者はずいぶん前から、細野稔人さんから「地元で何か展覧会をやりたいね」と言われていた。細野さんは二紀会に所属する団体系の彫刻家で、例にもれず地元では県展や市展といった「地方展」を牽引してきた中心人物である。しかしその細野さんが、今のままでは市展や県展の将来はないと断言しているのだ。そこでやはり、地域における新たな美術の仕掛けづくりを真剣に考えるようになったらしい。筆者は当初、前述した「さいたま美術展<創発>プロジェクト」との関連で何かできないか考えていたのだが、それは実現できないままに時が過ぎていた。
 そんな折、2011年に細野さんが79歳を迎えたことを知った。それなら翌年は傘寿(80歳)の祝いだ。細野さんは二紀会の人だが、他の美術家団体の展覧会にもしばしば足を運び、さらに個展系の美術家とも幅広く交流していた。この機を利用して、これまで細野さんと親交のあった美術家が集まり、傘寿をお祝いするという名目で展覧会がやれるのではないか。もしそれが実現すれば、団体系や個展系といった枠を超えて、さまざまな流派の美術家が一堂に会する画期的な展覧会になるはずである。
 すぐにそのことを電話すると、細野さんは二つ返事で了承してくれた。しかし、打合せを繰り返しながらいくつかの実施方法を模索したものの、なかなか実現に結びけることができなかった。そうこうするうち夏も過ぎ、2012年の実施には間に合わなくなった。時宜は逸してしまうが、その翌年の開催を目指して仕切り直しをしなければならなかった。


 時は来た

 ところで、ちょうど細野さんの傘寿を祝う展覧会の話が持ち上がったころ、細野さん宅と北浦和駅の間にアートプレイスKという画廊が新しくオープンした。ここでは間もなく、2000年以降に発表活動を開始した新しい世代の美術家を積極的に紹介するようになる。細野さんはアートプレイスKにもしばしば顔を出すようになり、若い美術家の作品を熱心に見るうち、これまで親交のあった美術家だけでなくこうした若い人たちにも出品してもらいたいと考えるようになったようだ。画廊を運営する近内眞佐子さんもそれに賛同し、実施に向けた検討が一気に具体化してきた。
 方向性は見えてきた。次は展覧会の運営スタッフを揃える番だ。
 立地のよさから事務局は近内さんにお願いすることになった。文書作成は筆者が受け持った。「さいたま美術展<創発>プロジェクト」で会計を行っている新倉美佳さんには、本展でも会計を引き受けてもらった。展示関連の調整は、久喜市で「分岐点」という展覧会をやっている木村由美子さんにお願いした。また本事業の歴史的な位置づけを明確にするため、神奈川県立歴史博物館の中村茉貴さんにも参加してもらった。
 アートプレイスK、さいたま美術展<創発>プロジェクト、分岐点、神奈川県立歴史博物館と、スタッフの所属先も多岐にわたる混成チームだった。このメンバーが核となって、事業主体となる実行委員会が結成された。名称は文字どおり「さいたま市の美術家をつなげる会」とし、2012年5月3日の設立となった。
 会場は、細野さんのたっての希望でうらわ美術館とすることにした。うらわ美術館では、毎年3月とその前後が市民への利用提供期間となっているため、開催時期は自動的に3月となった。誰に出品を依頼するかは細野さんが決めた。想定された出品者の数から、会場は最も面積の広い展示室Aとした。ただしここは使用料がけっこう嵩むので、近内さんにさいたま市から助成金を受けるための労を取ってもらった。
 中村さんは組織の中での位置づけが明確でなかったため、どのように関わったらよいか迷っていた。彼女はそれまでも埼玉で展開してきた美術の歴史に関心を持ち、ライフワークとして調査を行っていた。筆者としても、この展覧会を新たに何かが始まるための契機とするだけではなく、併せてさいたま市およびその周辺の美術の流れを振り返るようなものにしたいと考えていた。歴史が明らかになることで初めて、今後の展望を構想できるようになるからだ。
 本展の趣旨は、異なる流派に属する美術家が共に作品を展示するということである。逆に言えば、異なる流派に属する人たちは、ふだんはそれぞれ傾向の違う展覧会に出品しているということだ。では、それらの展覧会はどのような傾向に分類できるのか。そしてそれらに出品する美術家たちには、いったいどのような差があるのか。
 改めてこのことを考えると、日本で行われている展覧会の種別や傾向についていまだに基本となる研究が行われていないことがわかった。日本の美術研究の対象はあくまでも作品が主であるのだろう。しかし残された美術品には、その背後に必ずそれらを評価し流通させてきた社会システムがあったはずだ。そのシステムが明らかにならなければ、いくら「流派が異なる」と言ったところで意味をなさない。
 今回の展覧会の出品者は幅広い世代に渡り、さらにそれぞれ異なる傾向の展覧会に出品している。それならば彼らの出品歴を基に、展覧会の分類方法のひとつのたたき台を作ってみようということになった。そこからは団体系と個展系の違いだけでなく、時代ごとに変わってゆく展覧会の変遷も見えてくるはずだと考えたわけだ。果たしてその分析の結果、予測していなかった意外な事実が浮かび上がってきた。結果はこの記録集に収められているので、ぜひ併せてその成果もご覧いただきたい。


 タイトルどうする

 2012年7月29日、浦和駅前にある浦和コミュニティセンター第10集会室において、出品者およびスタッフによる顔合せが行われた。会議は大方円滑に進んだが、展覧会のタイトルが決まっていなかったため、それに対してさまざまな意見が出された。出品者の田中千鶴子さんから、「〈つなぐ〉のはよいが〈集まる〉のは本意でない、タイトルでそのことを明確にしてほしい」という発言があった。筆者は、事業の展開を考えるうえでこの指摘は極めて重要な示唆を含んでいると感じた。
 本展の出品者は、近い場所に住みながらも発表場所が違っていたため、これまであまり出会う機会のなかった美術家たちだ。筆者も、作品は知らないが名前を聞いたことのある人がけっこういた。顔を見れば思い出すかもしれないし、忘れてしまった人もいると思う。
 毎日すれ違っていても、美術関係者だということを知らなければあいさつもしないだろう。近所に住んでいたって知らない人はたくさんいるのだ。そんなことを考えているうち、会場で「どこかでお会いしましたね」とあいさつを交わす人たちの姿が自然と浮かんできた。それならこれを展覧会のタイトルにしてしまおう。奇を衒ったようなネーミングだが、実はこんなところに出所があった。
 ただしまじめな話、顔合わせのときの田中さんの発言がずっと引っかかっていたことも事実だ。東日本大震災以降、「絆」という言葉がしきりに使われるようになった。もちろんそれは重要なことであり、このように突然、非日常がもたらされたことで、改めて絆の大切さを実感した人も多かったろう。しかし、それと人が集まること、すなわち集団で行動することはまったく別である。
 今日、地方と都市部とでは、人と人との関係のあり方が大きく違ってきているように思える。地方に行くほど、集団を意識したつながりの強い共同体がある。一方、都市部では、他者と知り合うきっかけも見出せないほど個々の関係が希薄になっている。こうした中で私たちは、地域差を超えてどのような人のつながり方を提案することができるのだろう。
 封建社会において人々の行動規範となった価値基準は、その階級ごとに区分けされていた。農民には農民の規範があり武家には武家の規範があった。ところが階級を超えた普遍的な価値基準が導入されるようになると、それに伴って上下間の階級移動が起こってくる。その後、封建制を崩すために最も大きな影響を及ぼすようになるのは、他でもない経済の力だった。
 このようにして近代はスタートした。すべての人が経済力という共通の目標のもとに活動を行うようになるが、近代が成熟するにつれその立ち位置ごとに異なる規範を持ち始めた。それぞれ同じ地平に立っているのだが、当人の関心のありようによって価値観の異なる小集団をつくり始めたのだ。そしてそれがさらに細分化して、互いの趣向を高め合うことのできる個々の結びつきへと収斂され、そうした1対1のつながりが地域や言語を超えて世界各地へと広がっていったのである。
 こうした人と人のつながりは今日、「ネットワーク」と呼ばれているものに近い。インターネットの普及によってそれはますます多様性を持ってきている。実際に東日本大震災で被災地の人々の個別のニーズに応えたのは、マスメディアではなくネットワークを通した「絆」の力だった。「どこかでお会いしましたね」には、そうした個々のつながりを誘発させ連鎖させていくための合言葉になってほしいという願いも込められていた。


 意見交換会で

 かつて東京を中心とする都市部では、美術家の活動をマスメディアが積極的に取り上げ、多くの観客を動員した時期があった。個展をやればやったで、それなりに作品を買ってくれる人もいた。ところが1990年代の後半ぐらいから、人々の足は美術展から徐々に遠退いていく。美術家団体の中で最大の規模を誇る日展でさえ、2000年代初頭に18万人台だった入場者数は、2010年代になると16万人台まで落ち込んだ。団体系にとっても個展系にとっても、今日、都市部で展覧会を行うことのメリットが徐々に見えにくくなってきたのだ。
 冒頭でも記したように、戦後、団体系の美術家たちは、都市部で発表しながら、自らが住まう地元でも県展や市展といった地方展の運営を行い、地域に美術を根づかせるための活動を進めていた。実際、1960年代から70年代にかけての地方展は、美術家を目指す人たちの競い合いの場として活況を呈していた。ところが今日、これらの展覧会では、若い世代の出品が減って全体の平均年齢を押し上げているという。そのため、地方展の将来もまた多くの関係者が危惧するところとなっている。
 こうした状況の中で最も不安を抱えているのは、すでに活動を行ってきた人たちではなく、実はこれから実績を積んでゆかなければならない若手の美術家たちである。彼らは都市部で発表してもなかなか社会的評価が得にくく、自らが住まう地域では発表の機会さえないというのが現実だ。彼らの活動がこのまま途絶えてしまうことがあれば、美術の存在自体が日本から消えていってしまうのだ。これは美術家だけでなく、画廊や美術館、美術批評、美術ジャーナリズムを含めた、日本の美術界全体の問題である。
 都市は経済を軸に動いている。だからそのシステムを変えようと思っても、心意気だけではいかんともしがたいものがある。それよりもまず、美術に関わる人たちが立場を超えて何ができるのか、自らの足元から考えるべきなのではないか。そのくらいのことだったら、ひょっとしたら私たちにもできそうな気がする。実際、さいたま市には、地域の中で美術家たちが生き生きと活動していた時代があったのだから。
 こうした趣旨のもと、3月23日には本展の関連事業として「戦後の美術と地域」と題した意見交換会が行われた。開催場所がうらわ美術館であることから、まず基調講演として同館学芸員の森田一さんに「地域ゆかりの美術家」について美術館がどのように捉えているかを語ってもらった。その後、細野さんが、戦後のさいたま市において美術家がどんな活動を展開してきたかについて語り、次に中村さんがさいたま市ゆかりの美術家である瑛九のことを紹介した。
 森田さんは、美術館で言うような物理的な「ゆかり」ではなく、その地域固有の社会状況から美術作品のイメージが紡ぎだされることに興味があるということだった。また細野さんは、地域の行政と美術館、それに美術家が有機的に連携することでよい展開があるのではないかということを示唆した。中村さんからは、団体系にも個展系にも良いところとそうでないところあるので、それぞれの良いところを活かしていくべきだという瑛九の言葉を紹介した。
 瑛九と言えば宮崎県に生まれ、戦後から浦和に住み、この地で没した美術家である。河原温や利根山光人、靉嘔、福島辰夫、山城隆一、細江英公、磯辺行久、 吉原英雄、池田満寿夫といった人たちを集めて「デモクラート美術家協会」を立ち上げ、自らは絵画、版画、写真の制作を行い、さまざまな分野の人たちと交友関係を持ち、宮崎や大阪など地域を超えた交流も行った。さらに県内では埼玉県展の審査も行っていた。今風に言えば、まさにネットワークの達人だったのだ。


 おわりに

 日本が経済力で世界を制することはもう二度とないだろう。むしろこれからは、ひとりひとりが生活し活動する場から新たな価値観を構築していく時代となるのではないか。リオタール風に言えば「大きな物語」から「小さな物語」への転換だ。その物語づくりのために、美術は少なからず力を発揮できるものと筆者は考えている。
 物語は過去から未来へと続いていく。この地域で美術が物語づくりに参加できるとしたら、まずは分断された美術家の活動をひとつひとつ繋ぎ合わせていくことからだろう。そしてそこで有効性を持ってくるのは、大勢の人々を1か所に繋ぎ止めることのできる強固な団結力ではなく、個々の接点を無限に拡げていくことのできる柔軟なネットワーク力であるように思える。経済力によって世界を制覇してきた大きな物語は、すでに過去のものとなっているからだ。

<< 転載不可 >> Copyright © さいたま市の美術家をつなげる会. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system