さいたま市の美術家をつなげる会

どこかでお会いしましたね2019


 美術作品が成立する「場」というものの意味を深くとらえる

武居利史(美術評論家、府中市美術館学芸員)

はじめに

 訪れたことのない街を歩くと、わくわくするものだ。街並みだけでなく、見たことのない作品と出会うことは、そのわくわく感を何倍にもしてくれる。街中で行われるアートプロジェクトは各地に先例があり、試みそれ自体はいまや珍しくはない。それでも初めての場所を訪れ、初めての作品と向きあうことは、新鮮な感動を与えてくれる。これまでも「うらわ美術館」へ行くために、浦和駅へはたびたび来ることがあったが、新旧の文化入り混じる浦和駅西口一帯の奥の街路へと入り込んだのは、初めての体験であった。
 一口に街中での展示とはいっても、営業している店舗の一隅に展示されるものから、あらかじめギャラリーとして設えられた空間に展示されるものまで、多様な形態がある。「どこかでお会いしましたね2019」街中展の会期中、私はマップに記された順路に従って鑑賞を試みた。ここではそれぞれの展示会場を訪れて、自分が感じたり、考えたりしたことを中心に述べていきたいと思う。

1 浦和コルソから市役所通りまで

 まず、ルートは駅前の大きな商業施設である浦和コルソ4階からスタートする。「住まいランド」の壁面には、内藤瑞樹の抽象絵画が飾られている。二戸薫《coat》《タッチとストロークによるエチュード》と題された作品群は、不透明水彩による淡い色彩と軽妙なタッチが心地よく、いかにも事務的な感じのする店舗に精彩を与えている。同じ階の雪山堂浦和店(雪山堂ギャラリー) には、中井昭一の日本画が展示されている。大胆な色彩と筆致が魅惑的な抽象的な作風だが、店内には瑞々しい繊細な花の絵も飾られている。会場はギャラリーになっているので展示方法自体はオーソドックスであるが、写実的技術もあって幅広い人に受容されうるだろう手堅い作風は画材店らしいといえるだろう。
 県庁通り「柏屋楽器本店」ショーケースには、二戸薫の立体作品《coat》が外から見えるようにおかれている。二枚の不定形の板を白い繊維質のもので包んだ形状をしている。繭のようでもあり、内部に生き物が潜んでいたりするのではないかと夢想する。あるいは楽器店であることから、ピアノのような一種の楽器かもしれないとも考えてみる。
 さて、旧中山道を歩き「柳沢画廊」の角を入り、路地を探していくと「浦和仲町市街地住宅」は見つかる。4階へと階段を歩いて登り、通路の突き当りに会場の406号室はある。かつての公団住宅の一室を丸ごと使った展示である。岩垣有は、建物の立面図、階段、金網などの個々の要素に目を向けて、それを絵画的に作品化することを試みている。窓ガラスに埋め込まれた金網の存在に触発され、その形をアクリル板に拡大して描いて室内に吊るしている。それは時代に取り残されたかのような、旧き良き時代の集合住宅のデザインを再発見する仕事である。畳敷きの部屋には、小野美穂のリズミカルな意匠の壺形の陶器《透器-toukiview-》が展示されている。壺は日常の生活を暗示するものだが、生活空間だからこそ器の存在が引き立って見える。清潔感のある部屋が、陶器の白さを浮き立たせる。小野と同じ和室の壁には、田中宏美の白い慎ましやかな絵画も掛けられている。アクリル絵の具を層状に重ね、部分的にカラフルな地層のような模様を削り出す。台所にも、田中の枡のような形の小さな作品があり、林舞衣子のアルミ箔で覆われたオブジェもおかれている。4人の作品が1つの住居に同居し、ひそやかさを保ちつつ、心地よいハーモニーを奏でていた。
 また、さらに階段を上り、屋上へ出ると、林舞衣子の銀色のいくつもの輪が連鎖して風に揺られる作品《空を仰ぐ》に出会う。発砲スチロールをアルミ箔で包み、見た目にも軽快である。いくつもの輪が連なる様子は、あたかも細胞が増殖していくようで、鉄とコンクリートの殺風景な場所に生命感を与える。太陽の光を反射してキラキラと輝きながら、屋上の開放感を盛り立てている。さらに奥へ進むと、小野美穂の陶によるインスタレーションが鎮座する。壺や皿を縦に一直線に積み上げた塔状のオブジェが3体、三角形に配置されている。いずれも天を目指して伸び上がり、神聖な儀式の場のようだ。《Rin》というタイトルは、「凛」にも「輪」にも通じているように思える。非日常的空間である屋上は秘儀的な雰囲気に満ちており、散策者に束の間の安らぎを与えてくれる。
 旧中山道に戻り、大通りに面した「白井商事ロイヤルパインズ前店」では、ガラス面の内側に、《自販機 62号》《自販機 24号》という平面作品が2点が展示される。いずれも飲料の自動販売機の写真が、等身大に近い人間の形に切り抜かれている。コンピュータで加工したデジタル画像を、キャンバスにプリントした作品だ。モデルとなった自販機や人間の姿も、どこから取り出してきたのかはわからない。だが、街中にありふれたイメージを加工し、街路に露出させるという手法は、都市へ意識的に介入する戦略ともいえる。大量生産・大量消費を象徴する自動販売機を作品化することは、画一化されて個性を失う都市のあり方への作家の警告のようにも感じられる。茂木威史《自販機62号》《自販機24号》
 市役所通り「グッディーズカフェ」は、店内各所に高草木裕子の作品を飾る。大きな窓には、細胞のような生命的イメージの描かれた白く半透明のテトロンゴースが、カーテンのように吊るされる。それは店の外からも内からも見られるのだが、光の射し込む優しくオーガニックな雰囲気が、洒落たカフェのたたずまいと調和している。青系の絵の具で描いたOPPフィルムの作品も店内に展示されている。いずれも《Ambient》というタイトルがつけられ、作品は強く自己主張せずに、カフェの環境として機能することが、あらかじめ想定されているようだ。

2 裏町通り商店街を歩く

 展示場所のもっとも多い、裏門通り商店街へと移動する。最初は、不動産営業所「(有)サカタ本店」である。家でも探すのでなければ入らないような場所であるが、こぢんまりとしたオフィス内のそこここに、一条美由紀の饒舌な絵画が展示されている。プライベートな物語を想像させる作品、人間の一生に関わるモチーフは、家という特殊な商品を扱う場所の性質ともどこか響きあう。精神の暗部を見つめるような情念的表現もあるが、天井に飾られたシルクオーガンジーのドローイングなど工夫もあって、軽やかさや華やぎも感じられる展示となっていた。
 旧い木造家屋の「夢工房MARUYAMA」と並ぶ、生花店「クールヴェルジュ」では、彫刻の寺山三佳と、絵画の伊藤ちさとの2人が展示している。1階の生花を扱う店舗内には、寺山のFRPによる女性の半身像、テラコッタによる横顔のレリーフが展示されている。いずれも植物を象った銅板の装飾がなされ、生花店らしくフェミニンな要素とフローラルな要素が調和している。2階のカフェのような室内には、植物をテーマとした伊藤のナイーブな味わいのある油彩画、優しい印象のブロンズやテラコッタの寺山の女性像などが各所に配され、夢のような空間を演出していた。
 「あまぬま額縁・ガラス作業所(天沼商事)」は、通りに面した建物前面を広く展示壁として利用し、宇佐美由希子《~時 Tempo~》を展示していた。貼り紙には「自宅の近くの川沿の道はだの雑草のフロッタージュ群です」と説明してあるが、大きな葉っぱの形が樹木のようにたくさんの紙に並んで描かれて貼り出されている。色鉛筆で擦り出した時間の記録である。屋外にあるものを作家が発見して作品化し、屋外に向けて発信するという、地域プロジェクトらしい展示だ。展示場所となっている作業所も面白そうな場だが、この展示との直接の関係はないのかもしれない。
 カフェギャラリー「アートスペース717」は、店そのものがアーティステックな雰囲気をかもしている。展示されていたのは、高田由紀子で書だ。書とはいっても抽象絵画のようで、素朴さや可笑しみも感じさせる作品だ。展示壁には軸装した作品と額装した作品が並べて展示される。和洋のテイストが入り混じるシックな展示である。他の場所で書家の出品はないようなので、ジャンルの広がりを示すものとして特筆される。
 煎餅店「三代目満作」には、栗又由美のフレスコの陶板が、ショーケースなどに展示されている。素朴な色彩を使い、植物を文様化したアルカイックな趣のある小品は、伝統ある店構えと共鳴している。また通りの向かいにある食品店「フードジャーニー」でも展示しており、こちらはやや大きく洋食器をカラフルに描いた《Tabel set》などモダンなデザイン性ある作品を店頭に飾る。煎餅店と食品店では雰囲気も異なるので、作家があえて作品の趣向を変えたことがうかがえる。いずれも店内に並べられた商品と交じるように展示されるので、作品が見過ごされてしまいそうだ。それも街中展の面白さかもしれないが、商業的な場での展示の難しさである。
 酒店「加島屋商店」では、外からガラス越しに髙橋潤子に酒瓶を描いた連作《たんぽぽのお酒》を見ることができる。可愛らしい小瓶の絵が、格子状の陳列棚に並んで飾られていて、キュートな作品である。髙橋は同じく通りの並びにある「こもれび食堂+」でも展示する。こちらは、のびのびと広い壁面に《のはら》と題した、たんぽぽや蝶など淡彩でみずみずしく描いた大きな絵画を展示している。リラックスした雰囲気を演出しており、会場のイメージを意識したものであることがわかる。憩いの場所にふさわしい画想の作品である。
 アンティーク専門店「Free Style Antiques」は2階がギャラリーである。田口輝彦は、童心をくすぐる少年や少女、猫などをモチーフにした人形のような立体作品。陶と木を組み合わせ、玩具のような親しみやすさをにじませる。田中正弘は、ブロンズのミイラと鉄の棺桶で構成する《立棺》、内側に金箔を施した木製の棺に人体を入れた《死を恐れるな》の立体作品。古ぼけた家具におくことで魔術的な雰囲気が演出される。政森暁美は、黒々した地に彫跡がたゆたう油性木版画だ。縦長の作品が多く、額入りで壁に並ぶ。田口や田中は人間を象っているが、政森の版画は必ずしも対象物は明瞭ではない。しかしながら、縦方向に伸びる画面は人を連想させ、天(あの世)と地(この世)をつなぐ美術の機能に通じている。3人の仕事は、アンティーク店の雰囲気に通じるものがある。
 裏門通りから坂下通りに入ったヘアサロン「Cotton」では、徳永雅之の絵画が展示されている。通りからもドアの内側に堂々と作品が見える。ぼんやりとした光と影の効果を映したような作品だ。柔らかいぼかしの効果にはエアブラシが用いられているが、作品が力強いのは厚みのあるキャンバスに描かれているからか。無機質な白い壁に掛けられることで引き立つ。エッジの効いた店舗の印象と呼吸があっているように感じた。


高橋好美《耳にひびく キーツ》

3 旧中山道を歩く

 さて、「埼玉会館」を横目に県庁通りから旧中山道へと戻ると、「浦和ワシントンホテル」がある。3階ロビーへと上がると、3人が展示している。まず床には、熊谷美奈子の立体作品がおかれる。表面は褐色で覆われて一見木材でできた彫刻のようにも見えるが、実は和紙に柿渋を塗ったものらしい。ヤシの実のような形をした白い立体もあるが、こちらは和紙を使い白い胡粉で仕上げた作品らしい。それらには伝統的な素材や形態から立ち上がる作品の面白さがある。壁に目を向けると、染谷厚の中世や初期ルネサンスのヨーロッパを思わせる大小のテンペラ画がかけられている。シリーズとして描き続けているテーマにちがいなく、絵画として確立している。また別の壁面には、山岸君江の透明水彩による花鳥画が並ぶ。熊谷も染谷も山岸も、品の良さはホテルに合ってはいるものの、せっかくの組み合わせが生かされていないように感じた。
 道の反対側にある「柏屋楽器フォーラムミュージックセンター」2階の待合室には、高橋好美の絵画が数点ある。いずれも小品ながら個性的な作品で、版を用いたり、枯葉で描いたり、独特の手法で描かれている。中でも鑑賞者の注意をひくのは、《「耳にひびく音(ね)は美(うる)わしい しかし耳にひびかぬ音はさらに美わしい」キーツ》という横長の作品だ。タイトルと同じ英語の原文が書かれている。音楽教室の待合で味わってみるべき箴言といえるだろう。作品を独り眺めながら、哲学的な思索にふけるのも楽しいひとときだ。
 ふたたび反対へと渡るといかにも古そうな店が現れる。旧街道の歴史をもっとも感じさせる「青山茶舗」だ。店内に入ると正面に、大きな垂れ幕のような3枚の絵画が吊るされている。澤田石貴子《ぐるぐる(赤の曼陀羅)》という連作である。赤い渦巻は瞑想的で、不穏な気配に満ちている。図柄から私は柳瀬正夢のマヴォの作品《底の復報》を連想したが、戦争や震災などの暗い記憶を呼び覚ます。その前には《優しさの行方》という陽山貴之の錫と真鍮による立方体がおかれているが、金属の輝きがおよそ古い建築には似つかわしくなく挑戦的だ。しかしながら、同じ陽山による錫の茶碗《Earth 25℃》は茶屋という性格に即したものといえるし、山本雄大の虫や器を象った樟の木彫は、歴史を刻んだ場所に擬態のように溶け込む作品といえるかもしれない。
 「青山茶舗」の裏手「ギャラリー楽風」を抜けたところにある、「アトリエ・リング(青山家住宅)」には、まず《嘘ーラーパネルプロジェクト》(原案 SHIN de BAD.H/実作・設置 花田伸)が展示されている。円錐形の立体から四角いパネルを先につけた棒が触手のように伸びる。そして似たような小さなオブジェが、通路や中庭のそこかしこにおかれ、20体にもなる。エネルギー問題をテーマにしているのかもしれないが、詳しい説明がないので想像するよりほかにない。花田伸《嘘ーラーパネルプロジェクト》ガラス窓には、裏門通りにもあった宇佐美由希子《~時 Tempo~》の続きが展示されている。フロッタージュは全部で100点ということらしいが、こちらのほうが幾分落ち着いて見られる。住宅の外塀には、前出の茂木威史の《自販機51号の発見》《自販機41号の発見》が飾られている。大通りにあるよりも住宅街の方がよく作品が見えて、人が通り過ぎる風景が生きているように感じた。そもそも住宅という場所は私的空間であるので、ふだんは関係者しか入れないが、そうした場にも展示されることで街中展の奥行きを感じさせる。
 靴下と生活雑貨のお店「さきっちょ」2階は、展示専用のギャラリー空間である。壁には、松丸真江のアクリル絵の具をたっぷり用いたペインタリーな絵画が掛けられ、台上には、安藤英次の卵型をした砂岩の彫刻がおかれている。抽象的な絵画と彫刻が響きあう空間は、それ自体がコンテンポラリーな場として魅力あるものだった。

4 住宅街を抜けてカフェへ

 さて、旧中山道を進み、遠くに「ギャラリー彩光舎」を見ながら、左手にある調神社の手前を左に折れて住宅街へと進む。すると、新しい展示スペース「ギャラリーつきのみちくさ」がある。二戸薫は、柏屋楽器本店でも展示していたが、楽器店では気づかなかった作家の人体に対する興味をうかがうことができる。素材はいろいろだが、人間の人間たるゆえんを、身体の表面に探ろうとしているようだ。右から奥への壁面には、童話の世界を開くような、どこか悲しげなイメージの展開する古澤優子の日本画、左側の壁面には、鼻煙壺などの形態をユーモラスにおおらかなタッチで描いた山本和香子の絵画が並ぶ。古澤は物語の意味を考えさせるが、山本は直観的な感覚が作品の魅力である。二戸も含めて展示している3人の関係がよくわからないのが残念である。
 駅に向かって戻ると、高層マンションのコスタタワー前に出る。1階に店舗が並んでいるのだが、そのうち2軒が会場となっている。「Caffè Baci」の山本圭子の作品にはインパクトがある。女性肖像の4点と、目と唇をモチーフにした作品だが、すべて何重にも重ねられたカラフルな布の断面で描かれている。絵画というべきか、レリーフというべきか、適切な言葉が見当たらないが、布の平たい面ではなく、細い切断面の集積によって絵になっているのだ。フロアだけでなくトイレ内にも展示してあり、小粒ながら作品の濃厚な香りが店内に充満するようだった。ヘアサロン「nico.」には、奥村拓郎の立体や平面が随所に展示されている。杉材に銀粉や黒鉛を塗布した黒々とした重量感もある作品で、波打つような表面のレリーフなども魅力的である。店内に黒い作品が配置されることによって空間全体の印象が引き締まってくるようだ。山本圭子《Crossing》
 さいたま市立高砂小学校の外周に沿って線路に向かって歩くと、最後の展示場所である「Cafe uwaito」に到達する。ヴィンテージ調のシックな店内の壁には、村山之都の水彩画が掛けられている。線路の見える都市の風景があるかと思えば、雪景色の中の犬やヘラジカなど遠い寒い国の思わせる作品もある。日常とは少し違った次元へと私たちを誘ってくれそうで、カフェには似つかわしく洒落ている。店内には、山本愛の水引を組み合わせた白いオブジェもある。アンティークの手鏡を白い水引で覆った《結鏡》は、水引という神聖さと手鏡というフェミニンな要素を結びつけて、女性の幸福や不幸について考えさせるような作品でもある。私が訪問したとき、女子高生を含む若い女性で店内は賑わっていた。浦和はこうしたカフェの文化が若者の間にも生きているということを確かめて少しうらやましく感じた。

おわりに

 「どこかでお会いしましたね2019」は、街中展のほかに埼玉会館展があり、「美術と街巡り・浦和」全体も、「公共空間と美術―埼玉会館エスプラナード展」と「ギャラリー・セレクション」があって、重層的なイベントとなっている。私も一通り展示は見たのだが、街中展は「美術と街巡り・浦和」の最も中心的なテーマを具現化する展示だったといえるだろう。美術作品を見る楽しみと、建築や都市を巡る楽しみは拮抗関係にあり、このようなスタイルの鑑賞では、必ずしもどちらかだけで成り立つものではないことを強く実感した。街を歩くことで見えてきたのは、移り行く浦和の街の多様な性格であり、外向きの顔だけでなく、そこに暮らす人の息づかいのようなものも伝わってきた。
 作品表現と展示場所の響きあいは非常に重要なポイントで、強い印象を残した場もあれば、散漫な印象にとどまった場もあったように思う。気になるのは、ギャラリーで行う展示と、一般の店舗や住宅などで行う展示の関係である。ギャラリーでの展示は、特殊な場との関係が切れてしまうので、必ずしも街中展に位置づける必要がない。あえてギャラリーでの展示を生かすためには、作品の主題や展示の内容であえて街との関係を作っていく必要もあるのではなかろうか。街中展における、一般店舗での展示とギャラリー空間での展示のチグハグさを感じた。同時に街中展らしい、会場の特性を生かしたもっと大胆な展示もほしいところだ。
 実際に街を巡ることで、浦和という街や作家の方々に親しみを覚えた。それは街の人々も、出展している作家も、お互いに感じていることだろう。相互の出会いと交流の深まりが街中展の何よりの効果である。美術の社会的効用が何かという問題は、アートプロジェクトにおいて繰り返し議論されてきたことではあるが、人と人とを結びつける役割は重要なものである。美術館やギャラリーのような美術制度の内側では、作品自体の価値以外はとかく捨象されて考えられがちなのであるが、社会の中で成立する美術において、美術の効用は大切な評価の軸となる。私としては、そこで美術作品が成立する「場」というものの意味を深くとらえたいと思う。「どこかでお会いしましたね2019」街中展は、そうしたことを考えるきっかけを与えてくれてもいるのである。

( 2019.4 )

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